3.11の震災直後、友人が
「芝居を観せてくれるより、おにぎりの1つでもくれた方が
よっぽど嬉しい!」と言った。
仙台で畑をやり、孫に無農薬野菜を食べさせることを
楽しみにしていた母に、核汚染の状況がわかるまでは
しばらく控えるよう勧めたら、
「土をいじったことのないおまえに何がわかる?
そんなに宮城が汚ないって思うなら二度と帰ってくるな!」
と言われた。
原発を使い続けることの是非について、実家が原発のそばにある
音楽仲間と言い争いにもなった。
怒りが、噴出していた。
かつてこんなにお互いの感情をぶつけ合っただろうか?
長年付き合ってきたにも関わらず、初めて相手がこんなにも
怒り狂うのかという面を見た。
私は身近な人達の、何を今まで見てきたんだろう?
東京ではたくさんの団体や、また個人が集まった集団が
震災、原発事故に対して活動を行っていた。
私は辺り構わず顔を出した。
そこでは己の信念を貫くために、いざこざも多々おこっていた。
原発に頼らない社会を作ろう、そのことは共通しているはずなのに、
その他の相違についてお互いを罵倒、非難し、排除に走る言葉が
飛び交ったりもしていた。
その中であらゆる情報に振り回され、私は混乱した。
自分を取り巻く世界を大切にし、その価値にそぐわないものについては
否定する。
私は今まで、それで済んできてしまっていた。
だけど、どんなに自分の周りを綺麗に高潔に保とうとしても、
放射性物質は降り積もる…。
もう、それを理屈で排除するだけでは立ってられない。
吐き出しても吐き出しても、自分の吐き出した嘔吐物を
無理矢理口に詰め込まれていく。
逃げ出したい、もう、無理!根を上げてしまいそうになる。
でも逃げたところでどうなる?
迫力に立ち向かうには、自分自身にエネルギーがなければ
太刀打ちできるはずはないのに。
そんなこと、社会だろうと劇場の中だろうと変わりはないのに。
ものを創り出すためには、ものを喰らう必要がある。
でも、食い散らかしてばかりで、産み出すことをしないでいると
やがて自身の想像力がつぼんでいく。
去年の5月に宮城を訪れた時、ある農家の庭の泥さらいを手伝った。
そこの奥さんが、津波で流されなかったが潮で真っ白になってしまった
ラベンダーの花を見ながら「これだけでも咲いてくれればなぁ。」と笑った。
一面潮と泥だらけの畑の中で、残ったねぎをせっせと直している
おじいさんがいた。
このラベンダーが咲いたら…このねぎが元気になったら…。
人が想像力を持たない限り、よりよき世界なんて創れやしない。
それなのに、私は私を守るために必死で情報ばかりに頼り、
自分で自分の想像力をつぼませてしまっていた。
砂漠の中に降り立った王子が、砂漠の中に隠された井戸を
見つける気がなければ、砂漠はいつまでも砂漠のままだろう。
一見、無駄に思えることをやり続けること。渇いても渇いても
井戸を掘り続ける作業。
その一杯の水を見つけるために、沸き出る想像力を枯らす
ことのないように、仲間と想像力の井戸を掘り出す。
あるかもわからない水を見つけるために、掘る。
砂と岩だらけの中で、口の中がじゃりじゃりいいながら、共に掘る。
今年、実家に帰った時に食べた母の野菜は本当においしかった。
かなざわ演劇祭・リーフレットより
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かなざわ演劇祭2012
昨日、東京NOVUS「小さな星の 王子さま」公演の初日が明けました。
本日とあと2公演です。(11/7、8)


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